【御三家対応】中学受験で必要な歴史人物を時代ごとに全員一覧にしてみた
結局、中学受験では歴史人物を何人覚えればいいの?
中学受験向けの歴史人物が、時代毎にまとめられたサイトがない!
という方に向けて、御三家まで対応させた歴史人物を全員まとめました。
- 御三家対応なので約230人います
- 中学受験で必要な歴史人物を時代ごとに見やすくまとめています
また、次のような特徴があります。
中学受験専用の一覧です
中学受験の過去問をベースにして、世界史の分野が入ってくる高校受験の内容は省いていますので、覚える歴史人物に無駄がありません(よくある「中学・高校受験どっちに使える!」というものではありません)。
角川まんがで収録されていない必要な歴史人物も載っています
当サイトでは「角川まんが」をメイン教材に推奨していますが、一部載っていない歴史人物もいます。
例えば、聖明王や犬上御田鍬などです。
角川まんがに載っていない人物もこの一覧では補足説明しています。
歴史人物230人の一問一答集をメルカリで出品しているよ!
旧石器時代
相沢忠洋(あいざわただひろ)
- 岩宿遺跡(群馬県)を発見しました ※実際の発見は昭和時代です
縄文時代
エドワード=モース
- 大森貝塚(東京都)を発見しました ※実際の発見は明治時代です
弥生時代
奴国王(なこくおう)
- 57年、後漢(中国)に使いを送りました
光武帝(こうぶてい)
- 後漢(中国)の初代皇帝です。
- 57年、奴国からの貢物に対して、「漢委奴国王」と刻まれた金印を与えました
【漢字の違いに注意】
「漢委奴国王」の「委」…志賀島で発見された金印に刻まれていた文字
「親魏倭王」の「倭」…魏の皇帝から日本の邪馬台国の女王卑弥呼に送られた称号
卑弥呼(ひみこ)
- 3世紀ごろの日本にあった邪馬台国という国の女王です
- 239年、魏(中国)へ使いを送りました
- 魏の王は、卑弥呼に「親魏倭王」という称号や金印、銅鏡などをくれました
- 邪馬台国日本のどこにあったのかは、九州説と近畿説があります
古墳時代
ワカタケル大王(わかたけるおおきみ)
- 『宋書』倭国伝にある倭の五王の武(倭王武)は雄略天皇といわれています
- 478年、倭王武は宋(中国)に使いを送りました
- 倭王武は次の➊、➋に名前が残るワカタケル大王とされています
➊稲荷山古墳(埼玉県)…「獲加多支鹵大王」の文字が入った鉄剣が出土(写真参照)
➋江田船山古墳(熊本県)…「獲加多支鹵大王」の文字が入っていたと思われる鉄刀が出土
「倭王武= 雄略天皇 = ワカタケル大王」
引用元:Wikipedia「雄略天皇」
聖明王(せいめいおう)
- 538年、日本に仏教を伝えた百済の王です
飛鳥時代
蘇我馬子(そがのうまこ)
- 大臣となり、仏教に反対するライバルの物部氏を倒しました
- 聖徳太子に協力して政治の改革を行いました
- 飛鳥寺(法興寺)を建てました
- 写真は、蘇我馬子の墓と推定されている石舞台古墳(奈良県明日香村)です 入試)2023渋幕
推古天皇(すいこてんのう)
- 日本で最初の女性天皇です
- 蘇我馬子のめいにあたります
- 593年、聖徳太子を摂政にしました
聖徳太子(しょうとくたいし) ※厩戸皇子(うまやどのおうじ)
- 593年、推古天皇の摂政となり、天皇中心の国づくりを目指しました
- 603年、冠位十二階を定めて、家柄にとらわれずに有能な人材を役人に登用しました
- 604年、十七条の憲法で、豪族や役人の心がまえを説きました
- 607年、斑鳩(奈良)に法隆寺を建てました(写真参照)
- 607年、小野妹子を遣隋使として隋(中国)に派遣し、対等の国交を開きました
引用元:Wikipedia「法隆寺」
小野妹子(おののいもこ)
- 名前から女性と思われがちですが男性です(最初は必ず間違えます)
- 607年、聖徳太子の命を受け、遣隋使として隋(中国)へ渡りました
- 「日出いづるところの天子……」という書き出しで有名な聖徳太子の国書を隋の皇帝煬帝に渡しました
煬帝(ようだい)
- 607年、小野妹子が隋(中国)へ派遣された時の隋の第2代皇帝です
- 煬帝に渡した手紙についてXでまとめています
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
- 630年、唐の都長安へ派遣された初めての遣唐使です
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
- 645年、中臣鎌足と協力して、蘇我氏を倒しました ⇒ 大化の改新が始まります
- 公地公民の制、地方制度を定め諸国に国司や郡司を置きました
- 663年、百済救済のため朝鮮に出兵しましたが、唐・新羅連合軍に敗れました【白村江の戦い】
- 668年、天智天皇となり、日本で最初の全国的な戸籍(庚午年籍)を作りました
中臣鎌足(なかとみのかまたり)
- 中大兄皇子と協力して、大化の改新をおし進めました
- 死の間際に天智天皇から藤原の姓をもらい藤原氏の祖となりました。このため、藤原鎌足ともいいます
蘇我蝦夷・入鹿(そがのえみし・いるか)
- 大化の改新で倒された豪族です ※親子です
天智天皇(てんじてんのう)
- 663年の白村江の戦いの後に、中大兄皇子が即位した天皇です
天武天皇(てんむてんのう)
- 天智天皇の弟で、大海人皇子といいました
- 672年、天智天皇の子の大友皇子と戦って勝利しました【壬申の乱】
- 飛鳥で即位し、天武天皇となりました
- 天皇中心の中央集権に努め、律令(律令とは、刑罰などの決まりのことです)に基づく政治をつくり上げようとしました
持統天皇(じとうてんのう)
- 694年、天武天皇の妻で、藤原京に都を移しました
藤原不比等(ふじわらのふひと)
- 701年、文武天皇の時に大宝律令を完成させた人物の1人です
刑部親王(おさかべしんのう)
- 701年、文武天皇の時に大宝律令を完成させた人物の1人です
奈良時代
元明天皇(げんめいてんのう)
- 710年、奈良の平城京に都を移しました
太安万侶(おおのやすまろ)
- 712年、『古事記』を編さんしました
稗田阿礼(ひえだのあれ)
- 『古事記』に記録する内容を暗しょうしました
舎人親(とねりしんのう)
- 720年、『日本書紀』を編さんしました
山上憶良(やまのうえのおくら)
- 『貧窮問答歌』を詠んだ歌人です
聖武天皇(しょうむてんのう)
- 世の中が乱れていたので、光明皇后とともに仏教の力で国を守ろうとしました
- 国ごとに国分寺と国分尼寺を、さらに都には東大寺を建て大仏(写真参照)をつくりました
- 大仏は大仏建立の詔(743年)から完成(752年)まで9年かかりましたが、僧の行基らが大仏作りに協力しました
- 743年、新しく開墾した土地の永久私有を認める墾田永年私財法を出しました
- 聖武天皇の遺品が、東大寺の正倉院(校倉造の倉庫)に残されています ⇒ 資料問題 入試)2023明治大学付属明治
引用元:Wikipedia「正倉院」
光明皇后(光明子)(こうみょうこうごう)(こうみょうし)
- 聖武天皇の皇后です
行基(ぎょうき)
- 日本各地で道路や橋、池などをつくる社会事業に力を注ぎました
- 民衆に仏教の教えを説きました
- 聖武天皇の大仏づくりに協力しました
鑑真(がんじん)
- 753年、唐(中国)から日本に来た僧です
- 渡航に失敗したため失明しましたが、6回目の航海でやっと日本に着きました
- 759年、奈良に唐招提寺を開き、日本の僧たちに戒律(=おきて)を教えました
- 1998年、「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されています
- 行基と似ているので間違えないようにしましょう
引用元:Wikipedia「唐招提寺」
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
- 奈良時代の遣唐留学生です
- 科挙に合格して役人となりました
平安時代
桓武天皇(かんむてんのう)
- 794年、京都の平安京に都を移しました
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
- 797年、桓武天皇より蝦夷討伐のため征夷大将軍に任命されました
アテルイ
- 坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首長です
最澄(さいちょう)
- 桓武天皇の命令で、空海と唐に渡り、密教について学びました
- 帰国後、比叡山(滋賀県と京都府)に延暦寺を建て、天台宗を開きました
- 伝教大師の名前を朝廷から贈られました
空海(くうかい)
- 桓武天皇の命令で、最澄と唐に渡り、密教について学びました
- 帰国後、高野山(和歌山県)に金剛峯寺を建て、真言宗を開きました
- 弘法大師の名前を朝廷から贈られました
- また、空海は、書道名人で、嵯峨天皇や橘逸勢とならぶ「三筆」の1人です
- 画像は空海の肖像画 入試)2023淑徳与野
引用元:Wikipedia「空海」
藤原良房(ふじわらのよしふさ)
- 866年、貴族で初めての摂政となりました
藤原基経(ふじわらのもとつね)
- 887年、初めての関白となった人物です
菅原道真(すがわらのみちざね)
- 894年、唐の衰えなどを理由に、遣唐使の停止を天皇に申し出て認められました
- とても頭が良く、右大臣にまで出世しましたが、藤原氏に罪をきせられ、九州の大宰府に追放され亡くなりました 漢字:「太宰府」としない!太宰府は現在の地名で大宰府が古代の役所の名前です
- しかし、この後、藤原関係者の相次ぐ死、流行病、天災が次々と起こり、これらは、菅原道真のたたりとおそれられたため、菅原道真は天神として天満宮に祭られました
平将門(たいらのまさかど)
- 桓武天皇の子孫です
- 935年、おじの国香を殺し、常陸国の役所をおそい反乱を起こします(平将門の乱)
- 自らを「新皇」と名のり、関東8国を支配しまいた
- しかし、平貞盛(国香の子)・藤原秀郷に滅ぼされました
- 同じころに起こった瀬戸内海の藤原純友の乱とあわせて、承平・天慶の乱といいます
藤原純友(ふじわらのすみとも)
- 939年、瀬戸内海で反乱を起こしました
藤原元命(ふじわらのもとなが)
- 988年、その悪政について同国の郡司・百姓らから訴えられた尾張国(愛知)の国司です
藤原道長(ふじわらのみちなが)
- 1016年、摂政となりました
- 子の頼通の時代と合わせて,摂関政治の全盛期をきずいた人物です
藤原頼通(ふじわらのよりみち)
- 1053年、藤原道長の息子で、平等院鳳凰堂を建立しました
紫式部(むらさきしきぶ)
- 小説『源氏物語』の作者です
- 一条天皇のきさき中宮・彰子に仕えていました
清少納言(せいしょうなごん)
- 随筆『枕草子』の作者です
- 一条天皇のきさき皇后・定子に仕えていました
- 『枕草子』は、清少納言が宮廷で見たり感じたりしたことを、するどい感覚と才知あふれた文章であらわした随筆で、かな文字で書かれています
- 『枕草子』は、歴史に残る最古の随筆とされています
醍醐天皇(だいごてんのう)
- 『古今和歌集』の編さんを命じた天皇です
紀貫之(きのつらゆき)
- 『土佐日記』の作者でもあり、『古今和歌集』の選者の1人でもあります
白河上皇 (しらかわじょうこう)
- 1086年、院政を始めました
源義家(みなもとのよしいえ)
- 父・源頼義に従い前九年合戦で活躍し、後三年合戦でも活躍しました
- 2023年度開成中学の試験で難問として出題されています(Xで投稿)
源義朝(みなもとのよしとも)
- 1159年、平治の乱で平清盛に敗北しました
平清盛(たいらのきよもり)
- 武士の頭領として瀬戸内海の海賊を従え、源氏をおさえ平家中心の政治を行いました
- 1156年、保元の乱で天皇方について勝利します
- 1159年、平治の乱では源義朝をやぶります
- 1167年、これまで貴族中心だった太政大臣の地位に武士として初めて太政大臣になりました 注)征夷大将軍ではありません
- 大輪田泊(現在の神戸港の一部)を修築し、日宋貿易では莫大な利益を得ました⇒金・刀剣などを輸出、宋銭・陶磁器などを輸入
木曽義仲(きそよしなか)
- 源義仲ともいいます
- 1183年、倶利伽羅峠の戦いで平氏に勝利しました
- 乱暴なふるまいが多く、いとこの源頼朝との仲が悪くなり,頼朝のさし向けた源範頼・義経の軍に攻せめられ戦死しました
後白河法皇(ごしらかわほうおう)
- 1185年、源頼朝が全国に守護・地頭を設置することを認めました
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
- 源頼朝に追われた源義経を保護した奥州藤原氏の第3代目当主は?
源義経(みなもとのよしつね)
- 源平合戦で活躍したが兄と対立し、平泉で倒されました
鎌倉時代
源頼朝(みなもとのよりとも)
- 1192年、征夷大将軍となり、名実ともに鎌倉幕府を成立させました
北条時政(ほうじょうときまさ)
- 鎌倉幕府の初代執権です
- 中学受験で出る北条氏をまとめました
源実朝(みなもとのさねとも)
1219年、鶴岡八幡宮の参拝時に暗殺されました
北条実時(ほうじょうさねとき)
- 現在の横浜にある金沢文庫をつくりました
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
- 1221年、承久の乱を起こしました
- 『新古今和歌集』の編さんを命じました
北条義時(ほうじょうよしとき)
- 鎌倉幕府の第2代執権です
- 1221年の承久の乱では幕府打倒の兵をあげた後鳥羽上皇を倒しました
北条政子(ほうじょうまさこ)
- 源頼朝の妻で「尼将軍」と呼ばれました
北条泰時(ほうじょうやすとき)
- 鎌倉幕府の第3代執権
- 承久の乱後、初代の六波羅探題(朝廷と西国の武士を監視)となり、さらに重要な政治や裁判を主な御家人で相談して決めようとする評定衆を置きました
- 1232年、公平な政治や裁判を行うために、御成敗式目(貞永式目)という、武士の手による武士の法律をはじめてつくりました
- この御成敗式目は、鎌倉、室町時代をとおして、長く武士の法律として生き続けました
チンギス=ハン
モンゴル帝国を建国した初代皇帝です
フビライ=ハン
- 元を建国し、日本にも2度にわたって軍を送りました
マルコ=ポーロ
- 『東方見聞録』を著しました
北条時宗(ほうじょうときむね)
- 鎌倉幕府の8代執権です
- 1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度の元軍の襲来(元寇)をしりぞけました
- また、鎌倉(神奈川県)に円覚寺を建て、元との戦いで死んだ人を弔いました
竹崎季長(たけざきすえなが)
- 元寇の時に、出陣した御家人です
- 恩賞をもらえなかった季長は、幕府に直接手柄を訴え、地頭の役職をもらいました
- 自分(写真右側の人物)を主人公にして描かせた『蒙古襲来絵詞』は、元寇の様子が分かる貴重な史料です 入試)2023山手学院、2023農大一中
- 中学入試で最もよく出る史料No1です(Xにも投稿!何故か1万インプ)
法然(ほうねん)
- 浄土宗の開祖です
親鸞(しんらん)
- 法然の弟子です。浄土真宗を広めました
一遍(いっぺん)
- 時宗を開きました
日蓮(にちれん)
- 「南無妙法蓮華経」というお題目を唱える教を説き、日蓮宗を広めた
- 『立正安国論』という幕府の政治をいさめる本を書いた
栄西(えいさい)
- 臨済宗を開きました
道元(どうげん)
- 曹洞宗を開きました
運慶・快慶(うんけい・かいけい)
- 金剛力士像を制作しました
藤原定家(ふじわらのていか)
- 『新古今和歌集』を編さんしました
琵琶法師(びわほうし)
- 『平家物語』を各地で語り伝えた人々のことです
- 人の名前ではありません
兼好法師(吉田兼好)(けんこうほうし)(よしだけんこう)
- 『徒然草』の作者です
鴨長明(かものちょうめい)
- 『方丈記』の作者です
新田義貞(にったよしさだ)
- 1333年、足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅ぼしました
(建武)時代
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
- 天皇中心の政治を復活させる目的で、鎌倉幕府を倒そうとしますが失敗し、隠岐(島根県)に流されました
- その後、足利尊氏、新田義貞らを味方につけ、鎌倉幕府を倒すことに成功します
- 天皇中心の政治(建武の新政)を行いましたが、公家中心だったため混乱を招きました
- 尊氏が反乱を起こし、2年余りで建武の新政は終わりますが、後醍醐天皇は吉野に朝廷を移しました(南朝)
- 対して、尊氏は光明天皇をたてました(北朝)
- この南北朝の対立は、足利義満が統一するまで約60年間続きました
楠木正成(くすのきまさしげ)
- 後醍醐天皇に仕えた河内国(大阪府)の武将です
室町時代
足利尊氏(あしかがたかうじ)
- 室町幕府を開いた初代将軍です
- 後醍醐天皇に協力して京都の六波羅を攻め、鎌倉幕府を滅ぼしました。
- しかし、公家を重視する後醍醐天皇にそむき、京都に光明天皇をたてました(北朝)
- 1338年、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開きました
足利義満(あしかがよしみつ)
- 室町幕府の第3代将軍です
- 1378年、京都の室町に花の御所とよばれる屋敷をつくり、そこに幕府を移しました
- 1392年、南北朝を合一しました
- 倭寇(海賊)を禁止し、明との国交を開き、1404年に日明貿易を始めました。⇒勘合(符)という合い札を使ったので、勘合貿易ともいいます
- 京都の北山に金閣(鹿苑寺)を建て、北山文化を発展させました
観阿弥(かんあみ)
- 能を大成しました
世阿弥(ぜあみ)
- 観阿弥の子です
- 観阿弥とともに能を大成しました
- 能楽に対する芸術論集『風姿花伝』を著しました
- 「初心忘るべからず」は世阿弥の言葉…何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを忘れてはいけない
尚巴志(しょうはし)
- 1429年、琉球王国を建てました
太田道灌(おおたどうかん)
- 江戸城を築いた人物です
細川勝元(ほそかわかつもと)
- 1467年、応仁の乱で東軍を率いた守護大名です
山名持豊(宗全)(やまなもちとよ)(そうぜん)
- 1467年、応仁の乱で西軍を率いた守護大名です
足利義政(あしかがよしまさ)
- 室町幕府の第8代将軍です
- 将軍のあとつぎ問題で、有力な守護大名の山名持豊(宗全)と細川勝元の対立がからみ、1467年に応仁の乱がおこりました(戦国時代の始まり)
- 応仁の乱の最中に将軍職を子の義尚にゆずり、京都の東山に銀閣(慈照寺)を建てました
- このころ、禅宗の影響を受けた水墨画(すみ絵)・能・連歌などが栄えました(東山文化)
雪舟(せっしゅう)
- 室町時代のお僧さんで、絵描きです
- 絵の勉強で明(中国)に行って、水墨画を学びました
- 帰国後、各地を旅行しながら風景画を描き、日本風の水墨画(すみ絵)を完成させ、後の狩野派(かのうは)に影響を与えました
- 代表作に、『山水長巻』」『秋冬山水』『天橋立』などがあります
フランシスコ=ザビエル
- 1549年、鹿児島に来てキリスト教を伝えたスペイン人の宣教師です
北条早雲(ほうじょうそううん)
- 相模国(神奈川県)の小田原を本拠地として勢力をもった戦国大名です
武田信玄(たけだしんげん)
- 甲斐(山梨県)出身です
- 無敵の武田騎馬隊をあやつり、天下にその名をとどろかせました
上杉謙信(うえすぎけんしん)
- 越後(新潟)出身です
- 戦の天才で、正々堂々と戦う武将でした
今川義元(いまがわよしもと)
- 1560年、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた戦国大名です
足利義昭(あしかがよしあき)
- 室町幕府最後の将軍
- 織田信長の助けをかりて京都に入り、室町幕府の15代将軍となりました
- しかし、その後、信長と対立し、1573年に京都から追放され、室町幕府は滅亡しました
(参考)中学受験で覚える戦国大名(最難関Ver)
全員をフルネームで覚える必要はありませんが、最難関校をめざすのであれば朝倉氏が越前国、毛利氏が安芸国という感じで、「~氏」と国名を全セットを覚える必要があります。
安土桃山時代
織田信長(おだのぶなが)
- 尾張(愛知)出身の戦国大名です
- 1560年、桶狭間の戦いで今川義元を倒しました
- 1573年、足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした
- 1575年、長篠の戦い(愛知県)では、鉄砲隊を使って武田勝頼を破りました
- 1577年、商工業の発展をはかるため、楽市・楽座を行いました
- 1582年、京都の本願寺で家臣の明智光秀におそわれて自害しました
明智光秀(あけちみつひで)
- 美濃国(岐阜県)出身の戦国時代の武将です
- 1582年、京都の本能寺で織田信長に謀反を起こしました(本能寺の変)
- しかし、京都に引き返してきた豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れました
- なんとも短い天下人だったことから、「三日天下」という言葉が生まれました。(注:織田信長が死んで3日後に殺されたわけではありません。)
武田勝頼(たけだかつより)
- 甲斐国(山梨県)の戦国大名で、武田信玄の子どもです
- 1575年、長篠の戦い(愛知県)で、武田のほこる騎馬隊は、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊に敗れました。これ以降、武田家はおとろえていきます
- 1582年、織田信長に甲斐まで攻めこまれた武田勝頼は天目山で自害し、ここに武田家は滅亡します
伊達政宗(だてまさむね)
- 東北地方で大きな勢力をほこった「独眼竜」とも呼ばれた戦国大名です
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
- 尾張(愛知)出身で、安土桃山時代の武将です
- 1590年、小田原の北条氏を破り、天下を統一しました
- 1582年、全国の土地を調べなおし検地帳に記録ました(太閤検地)
- 1588年、土一揆を防ぐために、農民が持っている武器を取り上げました(刀狩)
- 1592年、朝鮮に出兵したが失敗しました(文禄の役)、1597年、再度失敗(慶長の役)
李舜臣(りしゅんしん)
- 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)時、朝鮮水軍を率いた人物です
狩野永徳(かのうえいとく)
- 『唐獅子図屏風』を描きました
千利休(せんのりきゅう)
- 堺(大阪府)の町人出身です
- 織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶の湯を茶道として完成させました
- 利休の茶は、「わび茶」といって、簡素なものでした
- しかし、晩年秀吉の怒りにふれ、切腹させられました
出雲の阿国(いずものおくに)
- かぶき踊りを始めました
ウィリアム=アダムズ(三浦按針)(みうらあんじん)
- 1600年、日本に漂着したリーフデ号のイギリス人航海士です
石田三成(いしだみつなり)
- 近江(滋賀県)の出身です
- 豊臣秀吉の家臣でした
- 1600年、徳川家康と対立し、西軍の総大将として、関ヶ原の戦いを起こしましたが、敗れて京都で処刑されました
- 漢字 石田三成を書くとき「光成」としないように!
江戸時代
徳川家康(とくがわいえやす)
- 1600年、関ヶ原の戦いで、石田三成に勝利します
- 1603年、征夷大将軍となって、江戸(東京都)に幕府を開きました
- 1614年の大阪冬の陣、1615年の大阪夏の陣で、大阪城にいた豊臣家を滅ぼしました
- 写真は、徳川家康が祭られている日光東照宮(栃木県)です 入試)2023渋幕
- 1999年、「日光の社寺」の構成資産として世界遺産(文化)に登録されました
山田長政(やまだながまさ)
- シャム(現在のタイ)の日本人町を中心に活躍しました
豊臣秀頼(とよとみひでより)
- 豊臣秀吉の子で、母は淀君です
- 秀吉の死後、6歳で豊臣家を継ぎます
- 大阪冬の陣、夏の陣で徳川家康から攻められます
- 秀頼は、大阪城内で母の淀君とともに自害しここに豊臣家は滅びました
徳川秀忠(とくがわひでただ)
- 1615年、大名を取り締まる武家諸法度を定め、また、朝廷や公家をおさえる掟の禁中並公家諸法度も定めました
徳川家光(とくがわいえみつ)
- 江戸幕府の第3代の将軍です
- 1635年、参勤交代の制度をつくりました
- キリスト教をきびしく弾圧しました ⇒これに反発して、1637年、島原・天草一揆が起こります
- 1639年、ポルトガル船の来航を禁止しました
- 1641年、オランダ商館を長崎の出島に移して、オランダと中国(清)と朝鮮以外の外国との貿易を禁止しました(いわゆる鎖国)↓Xで江戸時代の鎖国下の4つの窓口をまとめています!
天草四郎(あまくさしろう)
- 1637年、天草四郎は、悪政に苦しんでいる島原(長崎県)・天草(熊本県)地方のキリスト教信者の農民とともに、島原・天草一揆をおこしましたが、敗れて戦死しました
河村瑞賢(かわむらずいけん)
- 西廻り・東廻り航路を整備した豪商です
徳川光圀(とくがわみつくに)
- 水戸藩の藩主、『大日本史』の編さんを手がけました
三井高利(みついたかとし)
- 越後谷呉服店を開き「現金掛け値なし」という商法で商売を繁盛させました
シャクシャイン
- 1669年、松前藩の不当な取引に対して、アイヌの人々が反乱を起こした時の中心人物です
- しかし、この戦いはアイヌ族の負けに終わり、シャクシャインは処刑されました
- 以後、松前藩のアイヌの人々に対する支配は強化されました。
徳川綱吉(とくがわつなよし)
- 1685年、生類憐みの令を発布した第5代将軍です
井原西鶴(いはらさいかく)
- 江戸時代の元禄文化を代表する小説家です
- 町人の生活をいきいきとえがいた『好色一代男』や『好色一代女』があります
- また、お金をめぐる町人の生活をかいた『日本永代蔵』や『世間胸算用』も有名です
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
- 江戸時代の人形浄瑠璃、歌舞伎の脚本家です。
- 世話物の『曽根崎心中』、時代物の『国性爺合戦』などの代表作があります。
- 松尾芭蕉、井原西鶴とセットで、元禄文化の3大作家として覚えましょう
松尾芭蕉(まつおばしょう)
- 伊賀藩(三重県)出身の俳人です
- 弟子の河合曾良と東北、北陸を旅しながら多くの俳句を詠みました
- その俳句をまとめたものが『奥の細道』になります
- 町人中心の元禄時代に、西鶴や近松とともに活躍しました
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
- 『見返り美人図』を描きました
尾形光琳(おがたこうりん)
- 『紅白梅図屏風』を描きました
新井白石(あらいはくせき)
- 徳川第6、第7代将軍のころに仕えた朱子学者です
- 規則や学問を重んじる文治政治(正徳の治)を行いました
- 貨幣の質をよくして、物価の安定をはかりました
- 長崎での貿易を制限して金銀の海外流出を防ぎました(長崎新令)
- 主な著書に、『西洋紀聞』『読史余論』があります
徳川吉宗(とくがわよしむね)
- 紀伊藩主から徳川第8代将軍となりました
- 1716年、享保(きょうほう)の改革を行いました
- 改革の結果、米価安定に努力したので、「米将軍」と呼ばれました
青木昆陽(あおきこんよう)
- 徳川吉宗の命よりサツマイモ栽培を研究しました
本居宣長(もとおりのりなが)
- 『古事記伝』を完成させました
杉田玄白(すぎたげんぱく)
- オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』に感激し,同書の翻訳を決心しました
- 前野良沢らと協力して、およそ4年をかけて翻訳を終え、1774年、『解体新書』として出版しました
前野良沢(まえのりょうたく)
- 杉田玄白とともに『解体新書』を出版しました
平賀源内(ひらがげんない)
- 長崎でオランダ語や理化学を学びました
- また、江戸にでて、植物学の勉強をしました
- その後、石綿や寒暖計を発明したり、エレキテルという発電機をつくって人々を驚かせました
田沼意次(たぬまおきつぐ)
- 1772年、老中となり株仲間の結成を奨励する改革を行いました
松平定信(まつだいらさだのぶ)
- 1787年、寛政の改革を行いました
ラクスマン
- 1792年、根室に来航したロシア人です
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)
- ラクスマンが来航した時に、日本に引き渡された日本人漂流民です
レザノフ
- 1804年、長崎に来航したロシア人です
- ラクスマンと間違えないようにしましょう
間宮林蔵(まみやりんぞう)
- 1808年、幕府の命を受けて北方探検を行いました
伊能忠敬(いのうただたか)
- 1800年、江戸幕府の命令を受けて,以後,17年にわたって全国を測量しながら歩いて旅し、日本地図をつくりました
- 伊能忠敬が死んだ後、弟子たちがこれを受け継いで正確な日本全国図を完成させました
- 後に、この伊能図の国外持ちだしをめぐって、シーボルト事件が起こりました
シーボルト
- ドイツ人の医者で、1823年、オランダ商館の医者として来日しました
- 長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英をはじめ、多くの日本人に医学や自然科学を教えました
- 1828年、帰国に際して、伊能忠敬らが作った『大日本沿海輿地全図』を持ち出したことで、国外追放となりました【シーボルト事件】
- 江戸時代の私塾についてまとめました
緒方洪庵(おがたこうあん)
- 適塾を開きました
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
- 大坂町奉行の元役人で、陽明学者です
- 1837年、天保のききんで苦しむ人々を救おうと、大阪で反乱を起こしましたが、失敗して自害しました【大塩平八郎の乱】
高野長英(たかのちょうえい)
- 1839年、蛮社の獄で処罰されました
渡辺崋山(わたなべかざん)
- 1839年、蛮社の獄で処罰されました
水野忠邦(みずのただくに)
- 1841年、天保の改革を行いました
滝澤馬琴(たきざわばきん)
- 『南総里見八犬伝』を著しました
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
- 『東海道中膝栗毛』(滑稽本)を著しました
小林一茶(こばやしいっさ)
- 信濃(長野県)出身の俳人です
- この炎天寺にある石碑には、一茶が詠んだとされる「やせ蛙」の句が書いてあります
- また、俳諧俳文集の「おらが春」がよくテストに出されます
葛飾北斎(かつしかほくさい)
- 浮世絵師
- 風景画の作者として知られ、ヨーロッパの画家にも大きな影響を与えました
- 歌川広重と混同しやすいので、間違いないようにしましょう
- 代表作に『富嶽三十六景』(写真参照)があります 入試)2023関東学院
歌川広重(うたがわひろしげ)
- 江戸時代の浮世絵師で、本名は安藤広重
- 葛飾北斎の影響を受けえて風景画をかくようになりました
- 代表作に、『東海道五十三次』があり、絵に用いられた鮮やかな藍色は「ジャパンブルー」と呼ばれ、高く評価されました
- 葛飾北斎、喜多川歌麿らとともに化政文化を代表する浮世絵師です
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
- 美人画で有名な浮世絵師です
ペリー
- アメリカ東インド艦隊の司令長官です
- 1853年、軍艦4隻を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航し、江戸幕府に開国を要求しました
- 1854年、日米和親条約を結んで、日本は下田(静岡県)と函館(北海道)を開港し、鎖国が終わりました
- ペリーが日本にやって来たルートについてXでまとめています
阿部正弘(あべまさひろ)
- 1854年、日米和親条約を結んだ老中です
ハリス
- 1856年、下田(静岡県)に初代総領事として着任しました
- 1858年、日米修好通商条約を大老の井伊直弼と結びました
- この条約により、函館、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の5港が開かれました
- また、アメリカに領事裁判権を認め、日本に関税自主権がないという不平等な条約でした
- この後、幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも、ほぼ同じ内容の条約を結ぶことになりました
井伊直弼(いいなおすけ)
- 彦根藩(滋賀県)の藩主でした。
- 1858年、幕府の将軍につぐ、最高の職である大老になりました。
- 同年、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を結びます。
- 1859年、自分のやり方に反対する吉田松陰や橋本佐内らを処刑しました(安政の大獄)
- 1860年、江戸城の桜田門の外で暗殺されました(桜田門外の変)
吉田松陰(よしだしょういん)
- 井伊直弼によって安政の大獄で処罰されました
- 松下村塾を開きました
橋本佐内(はしもとさない)
- 将軍の跡継ぎ問題で徳川慶喜をおし幕府に反対したため、安政の大獄で吉田松陰らとともに処刑されました
高杉晋作(たかすぎしんさく)
- 長州藩(山口県)出身です
- 吉田松陰に学び、後に奇兵隊を組織し、倒幕に努めました
坂本龍馬(さかもりょうま)
- 土佐(高知県)の下級武士の家に生まれました
- 1866年、新しい日本をつくるための倒幕には、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の協力が必要と考えた龍馬は、お互いに協力するという薩長同盟を結ばせました
- 1867年、龍馬は後藤象二郎と船で京都にのぼるとちゅう、幕府が政権を朝廷に返し、朝廷を中心にした新しい国をつくるという考えを示しました(船中八策)
- 大政奉還を実現させましたが、33歳、京都で暗殺されました
勝海舟(かつかいしゅう)
- 江戸時代末期から明治維新で活躍した政治家です
- ペリー来航のとき、積極的な開国論を述べた意見書を提出しました
- 1860年、幕府が、軍艦の咸臨丸をアメリカに派遣した時の艦長でした
- 戊辰戦争のなかでついに新政府軍(倒幕軍)が江戸にせまると、幕府の代表として西郷隆盛と交渉し、江戸城を明け渡す代わりに攻撃の中止を提案しました
- これが、江戸城無血開城といわれるものです
- 写真は三田駅出口にある記念碑 入試)2023芝
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
- 江戸幕府最後の第15代将軍です
- 水戸藩(茨城県)の藩主徳川斉昭の子で、のちに一橋家の養子なりました
- 1867年、京都の二条城で、大政奉還を宣言し、江戸幕府は滅び、武家政治も終わりとなりました
- その後、王政復古に不満を持つ旧幕府軍と新政府軍の戦いが京都で起こりました(鳥羽・伏見の戦い)
- この戦いは、北海道の五稜郭の戦いまで1年半続きました
- 結果、新政府軍の勝利で終わり、一連の戦いを戊辰戦争と呼びました
明治時代
明治天皇(めいじてんのう)
- 王政復古を実現し、1868年、五箇条の御誓文で新しい政治方針を示しました
榎本武揚(えのもとたけあき)
- 江戸開城後、箱館(北海道)に造られた星形の城五稜郭にたてこもって新政府軍に反抗しました
- 元新選組の土方歳三らが奮闘しましたが、ついに降伏しました
- これを五稜郭の戦い(または函館戦争)といい、戊辰戦争最後の戦いとなりました
- 最初の戦いである鳥羽・伏見の戦い(京都)とセットで覚えよう
- 写真は五稜郭 入試)2023芝
木戸孝允(きどたかよし)
- 長州藩(山口県)の出身です
- 幕末の志士で桂小五郎ともいいました
- 1866年、薩摩藩と同盟し、倒幕を実現しました
- 明治維新では中心人物(維新三傑の1人)となり、五箇条の御誓文に手を加え、版籍奉還や廃藩置県などにつくしました
大久保利通(おおくぼとしみち)
- 薩摩藩(鹿児島県)出身の下級武士でした
- 幼ななじみの西郷隆盛とともに薩長同盟の中心となって倒幕運動で活躍しました
- 版籍奉還や廃藩置県の実現にかかわりました
- 岩倉具視や伊藤博文らとともに、ヨーロッパへ岩倉具視使節団として行きました
- 西郷隆盛が自害した翌年、不平士族に暗殺されました
- 維新三傑…大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允
福沢諭吉(ふくざわゆきち)
- 『学問のすゝめ』などを書いて、日本に新しい考え方を広めました
- このころ、海外から鉄道やガス灯など西洋の文化や技術が多く入ってきました
- これを文明開化といいます
- 注)これを「明治維新」と間違える子が多い!明治維新は、ペリー来航をきっかけとした日本を近代国家にするための明治時代初め頃までの一連の諸改革をいいます(期間によっては学説あり)
中江兆民(なかえちょうみん)
- 『民約訳解』を著し「東洋のルソー」と呼ばれました
前島密(まえじまひそか)
- 「日本近代郵便の父」と呼ばれました
- 郵便制度をつくりました
岩倉具視(いわくらともみ)
- 京都の公家出身です。幕末に公武合体運動の中心人物でありました
- 後に、大久保利通らの倒幕派に近づき、明治天皇のもとで王政復古の大号令を発表しました
- 1871年、条約改正を目的として、欧米使節団の大使として欧米を視察しました(岩倉具視使節団)
- 帰国後、日本の近代化が重要だと考え、西郷隆盛の征韓論に反対しました
津田梅子(つだうめこ)
- 1871年、6歳の時に岩倉使節団に同行し、アメリカに渡りました
- 帰国後は女子教育に力をつくしました
- 女子英学塾(現津田塾大学)をつくりました
- 2024年発行予定の新5000円券の肖像に選ばれました
- 資料問題 入試)2023江戸川学園取手
- 中学受験でよく出る女性肖像画トップ5をまとめました
クラーク
- 「少年よ大志を抱け」という言葉を残した札幌農学校の初代校長です
西郷隆盛(さいごうたかもり)
- 薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の出身です
- 幕末〜明治時代初期の政治家で、維新三傑の1人とも呼ばれています
- 戊辰戦争では政府軍の総参謀として江戸城の無血開城を実現しました
- 1877年,西南戦争の首領となりましたが、新政府軍にやぶれて鹿児島で自害しました
- 写真嫌いで有名で、現存する西郷さんの写真は一枚もないそうです
江藤新平(えとうしんぺい)
- 1874年、佐賀の乱を起こしました
板垣退助(いたがきたいすけ)
- 土佐藩(高知県)出身の明治時代の政治家です
- 1874年、国会の開設を要求する民選議員設立建白書を政府に出し、自由民権運動の中心的存在となりました
- 1881年、日本初の政党である自由党を結成し、党首となりました
- 1898年、大隈重信と協力して、日本初の政党内閣をつくりました
大隈重信(おおくましげのぶ)
- 1882年、立憲改進党を結成し、党首となりました
- 早稲田大学(昔の東京専門学校)をつくった人です
- 首相のとき、中華民国に対して、二十一か条の要求を出しました
- 板垣退助の自由党がフランス流の急進主義だったのに対し,大隈重信の立憲改進党は,イギリス流の比較的おだやかな政党でした
井上馨(いのうえかおる)
- 幕末に結んだ不平等条約を改正するため、当時の外務卿(外務大臣)だった井上馨は鹿鳴館で舞踏会を開き、欧米諸国へ日本の文明開化をアピールしました
- 鹿鳴館は、1883年に東京日比谷の旧薩摩藩定跡に建てられました
- 資料問題 入試)2023城北
伊藤博文(いとうひろぶみ)
- 長州藩(山口県)出身の明治時代の政治家です
- 君主権の強いドイツの憲法を手本に、大日本帝国憲法の案をつくりました
- 1885年、内閣制度を取り入れ、日本最初の内閣総理大臣となりました
- 日露戦争後、韓国併合をすすめ、初代韓国統監となりました
- 1909年、満州のハルビン駅で韓国人の安重根に暗殺されました
黒田清隆(くろだきよたか)
- 1889年、大日本帝国憲法が発布された時の首相です
- 注)伊藤博文と間違えないようにしましょう。草案は伊藤博文です
陸奥宗光(むつむねみつ)
- 1894年、領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功した外務大臣です
田中正造(たなかしょうぞう)
- 栃木県出身です
- 足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、足尾銅山鉱毒事件に取り組んだが解決しなかった
- 1901年、衆議院議員をやめ、天皇の行列に直接訴えましたが失敗しました
- その後も農民の補償問題に取り組み、鉱毒問題に一生をささげました
渋沢栄一(しぶさわえいいち)
- ヨーロッパにわたって外国の産業を学びました
- 明治政府では、大蔵省に入って活躍しました
- 役人をやめてから、日本最初の銀行である第一国立銀行をはじめ、王子製紙・大阪紡績などを多くの企業の設立にかかわりました
- 2024年に、新しい1万円札にデザインされることが決定しています 入試)2023城北埼玉
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
- 1904年、日露戦争が始まった時の海軍を率いりました
- 1905年、日露戦争の日本海海戦では、日本海軍を指揮して無敵といわれたロシアのバルチック艦隊を破り、日露戦争を勝利に導きました
- 東郷平八郎が司令長官として乗艦した連合艦隊の旗艦「三笠」は、世界三大記念艦1つとして三笠公園に保存されています
セオドア=ルーズベル卜
- 1905年、ポーツマス条約の締結に協力したアメリカ大統領です
小村寿太郎(こむらじゅたろう)
- 飫肥藩(宮崎県)の出身で、明治時代の外交官です
- 1902年、第1次桂内閣の外務大臣として日英同盟を結びました
- 1905年、日露戦争では講和会議の全権となってポーツマス条約に調印しました
- 1911年、関税自主権の回復に成功し、念願の条約改正を実現しました
与謝野晶子(よさのあきこ)
- 日露戦争時に、『明星』で「君死にたまふことなかれ」を発表した詩人です
- 「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、~」
- 『みだれ髪』の作者です
- 写真資料問題 入試)2022東邦中
引用元:Wikipedia「与謝野晶子」
内村鑑三(うちむらかんぞう)
- 日本のキリスト教の指導者として、また社会問題についても影響を与えました
安重根(あんじゅんぐん)
- 伊藤博文を暗殺した人物です
幸徳秋水(こうとくしゅうすい)
- 社会主義運動の第一人者、秋水は、のちに明治天皇の暗殺をはかったして処刑されました
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
- 「日本の細菌学の父」と呼ばれました
- 破傷風菌の研究をし、血清療法を発見しました
- 帰国後、伝染病研究所をつくり、ペスト菌を発見しました
- また、赤痢菌を発見した志賀潔らも育てました
- 1914年、北里研究所を設立しました
野口英世(のぐちひでよ)
- 福島県の貧しい農家に生まれ、幼児期にやけどをして手が不自由になりましたが、手術により完治しました。
- 「伝染病研究所」に入って北里柴三郎の指導を受け、血清学や免疫学の研究で注目されました
- 黄熱病の病原を研究するためアフリカに渡りましたが、自らが感染して亡くなりました
夏目漱石(なつめそうせき)
- 『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を書きました
- 他に、『三四郎』『それから』『門』『草枕』などが漱石の作品としてあります
- 漱石は、森鴎外とともに、日本の近代文学に大きな業績を残しました
樋口一葉(ひぐちいちよう)
- 明治時代の代表的小説家です
- 代表作品『たけくらべ』は、思春期の少年・少女の心の動きが描かれました
- ほかに、『にごりえ』、『十三夜』などがあります
- 2024.3月現在、5,000円札の肖像にもなっています
- 写真資料問題 入試)2022東邦中
石川啄木(いしかわたくぼく)
- 岩手県出身です
- 各地を転々とする間に口語による分かりやすい生活詩を書きました
- 生活詩とは、3行書きにする生活派短歌のことです
- 歌集『一握の砂』、『悲しき玩具』、小説『雲は天才である』などがあります
平塚雷鳥(ひらつからいちょう)
- 明治時代末から昭和時代にかけて、女性の地位向上に力をつくした女性解放運動家です
- 1911年、最初の婦人団体「青鞜社」をつくりました
- 雑誌『青鞜』の書き出し「元始、女性は実に太陽であった』という言葉が有名です
- 普通選挙運動が盛んになる中、市川房枝らと新婦人協会を設立しました
- 婦人参政権運動を進め、女性の政治集会への参加を認めさせました
大正時代
尾崎行雄(おざきゆきお)
- 1890年の第1回衆議院総選挙に当選し、以後連続25回当選しました
- 護憲運動や普通選挙運動で活躍し、「憲政の神様」と呼ばれました
吉野作造(よしのさくぞう)
- 「民本主義」を提唱しました
寺内正毅(てらうちまさたけ)
- 1918年、米騒動(富山県)の責任をとり辞職しました
原敬(はらたかし)
- 1918年、日本初の本格的な政党内閣が組織された時の首相です
西園寺公望(さいおんじきんもち)
- 1919年、パリ講和会議の日本全権代表です
ウィルソン
- 国際連盟の設立を提案しました
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)
- 国際連盟の初代事務局次長です
加藤高明(かとうたかあき)
- 1925年、普通選挙法・治安維持法が制定された時の首相です
市川房枝(いちかわふさえ)
- 平塚らいてうとともに新婦人協会を設立しました(1920 年)。
- 「婦選なくして真の普選なし」として女性参政権を主張しました。
昭和時代
フランクリン=ルーズベル卜
- ニューディール政策を行ったアメリカ大統領です
犬養毅(いぬかいつよし)
- 大隈重信が立憲改進党をつくるのに参加しました
- 代議士に17回も続けて当選し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」といわれました
- 内閣総理大臣にもなりましたが、1932年、五・一互事件で、陸軍の将校に銃殺されました
松岡洋右(まつおかようすけ)
- 1933年、国際連盟を脱退した時の全権大使です
ヒトラー
- ナチス・ドイツの総統です
高橋是清(たかはしこれきよ)
- 1936年、二・二六事件で暗殺された大蔵大臣です
近衛文麿(このえふみまろ)
- 1937年、日中戦争が始まった時の首相です
東条英機(とうじょうひでき)
- 近衛文麿内閣総辞職後、内閣総理大臣に就任しました
- 太平洋戦争開始の直接の責任者です
鈴木貫太郎(すずきかんたろう)
- 反対派をおさえポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争終結へ導いた首相です
マッカーサー
- GHQの最高司令官
- 1945年、ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏をした日本へ、連合国総司令部(GHQ)の最高司令官として来日しました
- 軍国主義をやめ、農地改革や財閥解体など日本の民主化を進めました
- 1950年、朝鮮戦争が始まると、警察予備隊を作らせました
毛沢東(もうたくとう)
- 1949年、中華人民共和国を建国しました
湯川秀樹(ゆかわひでき)
- 1949年、日本人では初のノーベル賞(物理学賞)を受賞しました
吉田茂(よしだしげる)
- 1951年、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の締結時の首相です
鳩山一郎(はとやまいちろう)
- 1954年、日本民主党を組織し内閣総理大臣となりました
- 1955年、自由党を統合して自由民主党(自民党)を結成しました
- 1956年、日ソ共同宣言に調印し、ソ連との国交を回復しました
- 同年、国際連合への加盟を果たしました
岸信介(きしのぶすけ)
- 1960年、日米新安全保障条約が締結された時の首相です
池田勇人(いけだはやと)
- 1960年、所得倍増計画が発表された時の首相です
佐藤栄作(さとうえいさく)
- 日韓基本条約締結(1965)、沖縄返還実現(1972)時の首相です
田中角栄(たなかかくえい)
- 1972年、日中共同声明が発表された時の首相です
福田赳夫(ふくだたけお)
- 1978年、日中平和友好条約が締結された時の首相です
中曽根康弘(なかそねやすひろ)
- 1987年、国鉄民営化が行われた時の首相です
平成時代
竹下登(たけしたのぼる)
- 1989年、消費税(税率3%)が導入された時の首相です
ブッシュ
- 1989年、マルタ会談に出席したアメリカの大統領(父の方)です
ゴルバチョフ
- 1989年、マルタ会談に出席したソ連の書記長です
宮澤喜一(みやざわきいち)
- 55年体制下の最後の首相です
橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)
- 1997年、消費税率が5%に引上げられた時の首相です
小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
- 2002年、北朝鮮を訪問し、初の日朝首脳会談に出席しました
令和時代
安倍晋三(あべしんぞう)
- 消費税率8%(2014年)及び10%(2019年)引上時の首相です
岸田文雄(きしだふみお)
- 第101代内閣総理大臣です
- 2023年、広島でG7サミットが開催されました
コメント
コメント一覧 (4件)
ハリスの日米修好通商条約の年代が間違っています。
. 様、ご指摘ありがとうございます!
1858年に訂正しました★
ありがとうございます!
今後ともHPが参考になれば幸いです★
勉強頑張ってください!